「何の為に働っきょんな?」?
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ドアつドアで飛び込み訪問が出来ます。
大声で「失礼します。わたくしこういうものですが・・・」
でも、2、3週間行けども行けども断られ続けると声も次第に小さくなっていきました。
◆それでも、何とか実績を上げるために毎日朝の8時?晩の10時11時まで働きました。時には「お前学生か」とか、「派遣といってもピンハネやないか」なんか、もう心もとない人たちから罵倒されたこともありました。それでも我慢しながら1ヶ月、2ヶ月飛び込み営業を続けました。それでも仕事はなかなか取れず3ヶ月目でやっと頂いたのが封筒のあて名書きでした。それから少しずつ仕事を頂くようになりました。
このころの「なんのために働っきょんな?」は生きるためです。
なんとて、生きていくために働いているという、まったく余裕はなかったです。
そして、少しずつ仕事も増え、それと共に社員も増えていきましたが、依然として生きていくために働いていたと思います。たぶん8年から9年は生きるために働いていました。
◆1993年同友会との出会いがありました。
私は、当時社員が辞めたり入ったりの繰り返しで自分はリーダーとして問題があるのではないかと真剣に悩んでいました。そんな時、一支部の東新電気の東社長から同友会のお誘いを受け、その時はサラリーマンでしたので会社は許してくれず自腹で入会しました。
当時、課長の私は、参加すると社長さんばっかりで緊張をしていましたし、カブで通っていたのは私だけだったので恥ずかしく横の隅に置いて例会に臨みました。いつか車で行くぞーと思ったのもその時でした。
同友会で勉強をして考え方や心も変わり始めると情勢も変わり始め私にとって大きな転機がやってきました。
◆親会社センコー産業から独立命令
と申しますのも、センコーグループの一番の親会社である兵庫銀行が大蔵省の管轄になり、銀行を立て直す一環として末端の子会社
私どものような、子会社をですね。
ある日、センコー産業の常務が来られて株を買い取ってくれと言って来ました。そして、独立をすることになりました。
そして、一年もせんうちに阪神大震災が起こりました。
センコー産業会社整理により同期テンでバラバラ
阪神大震災で兵庫銀行は、本社ビルを崩され、戦後初の銀行の破綻となってしまいました。それと共に1995年8月店頭上場まで上り詰めたセンコー産業が会社整理。50人いた同期もてんでバラバラになりました。子会社も半年くらいでバタバタバタと潰れていきました。
会社が倒産すると言うことは皆が不幸になるということを身をもって感じました。
その後山一證券、北海道拓殖銀行。そんな大きい所がドンドン潰れていく時代に入ってきました。
そして、倒産だけはしたくないなぁーと本間にトラウマが植えつけられました。
こんな大きな節目でサラリーマンから経営者となっていくわけです。
そして、そのころから人材派遣の流れが来はじめ社員も10名くらいになっており、同友会で習った夢を紙に書こうと事務所のイメージを書いてみると、念願の中央通りに進出することが出来ました。
それも偶然にもそごうが出来るため中央通りにあったパパスの店が急遽そごうにテナント入りしなければ成らなくなり空くと言うのです。内装費2000万円かけたお店がそのまま使えることになりました。下は木のフローリングと今までの
事務所とは見違えるようになりました。
◆このころの「なんのためにはたらっきょんな?」は、世間で認められたいために働いていました。
お話しは続く・・・